叙事詩のひろば
冷泉家
こんばんは。
ようこそ叙事詩の広場へ
今回は
京都冷泉家(れいぜいけ)の訪問の軌跡として
家相(かそ)をアップいたします。
参考資料として朝日新聞出版(二〇〇九年二四日発行)による
冷泉家時雨(しぐれ)帝叢書(そうしょ)完結記念
朝日新聞創刊一三〇周年記念
冷泉家
王朝の和歌守(わかもり)展
より以下抜粋しました。
《冷泉家 文化の「蔵版」》
冷泉 為人
(著より抜粋)
どうして冷泉家が御子左家の伝統を継承できたのか・・・
理由には幾つかあるが
その一つは
冷泉家が
「一流の二流」であった
冷泉家(れいぜいけ)は
平安時代末期から
三代続けて
勅撰集撰者となった藤原俊成(しゅんせい)
定家(ていか)
為家(ためいえ)を祖に持ち
和歌の伝統を
今日まで受け継いでいる
第一章
〈家相〉より
藤原為相(ためすけ)(一二六三~一三二八)が創設した冷泉家
関白道長(九六六~一〇二七)が貴族政治を完成
藤原氏の繁栄に比例して
多くの分家が生まれた
便宜上
一条通りに住んでいた家は「一条さん」
菊を庭に育てていた家は「菊亭さん」
と呼んだ
(五代目)俊成(しゅんせい一一一四~一二〇四)は
烏丸小路西
室町小路東
樋口「孤児北
五条大路南に邸宅があったことから
「五条殿」と呼ばれ
定家(ていか一一六二~一二四一)は
京極大路西
富小路東
正親町小路北
一条大路南にあった一条京極邸から
「京極殿」と呼ばれ
嵯峨野の中庭に住んでいた為家(ためいえ一一九八~一二七五)は「中院殿」と呼ばれ
為相(一二六三~一三二八)は
万里小路西
高倉小路東
冷泉小路北
大炊御門南にあり
正門が冷泉小路に面していたことから
「冷泉殿」と屋ばれた
以上
京都大好きの皆さまがたにとって、
京都訪問の際の道導(みちしるべ)になればと記載いたしました。
補足
ネット情報によると、
藤原道長は藤原氏の祖・中臣鎌足の子孫
藤原兼家のもとに生まれ、
源倫子との間にできた娘を天皇と結婚させ、
三代の天皇の外祖父となり権威をふるうとなっています。
叙事詩家 萬天