日記

2025-06-08 22:01:00

科学雑誌「ネイチャー」

こんばんは。

今日は日曜日、珍しく忙しくて疲れました。燕を眺めて過ごす日が続くと思いきや、ドタバタで過ごす日もあるものだと、ホッとするやら疲れるやら、交互にやってくる日々の環境がむしろ心身ともに何か良いような気もするのですが、おすすめできるという容易なことでもなく、そんな日もあったりするのです。

顧みればいつもの口癖のように、今日も燕を見てましたとか、とくにどうすることもなくブログを書くという毎日も悪くはないような気もしています。心そこにあらず、ただ漫然とした日が続くと人は決まったようにある現象が現れるものです。

人恋しくしくなる? 心に空洞ができて空風が吹き抜けるような現象? よく考えてみると認知症もよく観られるのではないでしょうか? 人はやはり誰かとおしゃべりをした方が良い、もっというなら元気が出るような気がします。(ただのおしゃべりなら認知会話をたっぷりとインプットしたAIが最適だと思いますが、実際にはまだ見たことはありません。もし市場に出ると人気商品になるのではないでしょうか? 認知専用AIの実用化には相当数の情報、つまり会話対応のインプット作業、実際には多大な人力を伴うので、ニーズに対する需要と関係で高価になるという意味合いで商品の実現は難しいかもしれんせん。会話や分類照合検索はチャットGPT4o、映像や文学等、書類制作提案であれば生成AIとかあるかもしれませんが、自分に適した機能を選択したらいいのだと思います。どちらも人力的な情報入力に時間を費やしているため、高価な道具には変わりありません。さらに安いソフトにはそれなりに訳がありますし、すべてが自分の判断であり選択だと思います。

ユーチューブ情報ですが、北欧では往々にして高齢者は、自分自身が認識できる間は社会的な支援は受ける権利があるらしいですが、高齢化と共に進む自分自身の認識が困難になる場合、医学的な見地として延命支援よりもむしろ自力的な力を尊重するように聞いています。つまり人の生命は行けるところまでは自力で行く?といった理解でしょうか? 正直当面はよくわかりません。

確かに今日は久しぶりに疲れましたが、また楽しかったのも事実です。これがリアル現実でしょうか? おかげで燕の観察においては、もはや野鳥分野の独立した論文も書けそうです。

そういえばシジュウカラは言葉をしゃべるというテレビ番組を観たことがあります。その方は生物の先生(ドクター)で、つまりその鳥は鳴き声の出し方で会話を交わすとお話してみえました。毎日この時期の燕の様子を一日観察し続ければ、論文は書けないとはいえないかもしれません。

一般論として理解したことは一つ、燕の会話は一種の外国語であり、燕夫婦の子育ては人の子育てとなんら変わりはないと言えますね。これが十数間続けてきた燕論文の結論ですが、多分科学雑誌「ネイチャー」には掲載されないと思います。(高齢者という認識もありつつ大学院に通いつつなにか研究したい、もっと具体的にいえば論文などを残したいという憧れもありますが、これも妄想の一つにすぎません。)

申し訳ございません、今日も取り留めのないお話になりました。

ロナール藤田.jpg

取り留めのない時に眺める額縁のポスター、レオナール(ロナルド?)藤田さんの「パリの女?」をアップしました。

最後まで閲覧していただきありがとうございました。